深夜0時、布団の中でInstagramを開く。
大学の同期がどこかのホテルのラウンジで友人たちと笑っている写真。別の子は彼氏と旅行に行ったストーリー。また別の子は転職して年収が上がったと報告。見るたびに「いいね」を押しながら、画面を閉じるたびに、なんとなく胸が重くなる。
上京してから1年間、私はずっとそれをやっていました。見るのがしんどいのに、やめられない。比べるのが嫌なのに、比べてしまう。この記事は、そういう経験を正直に書いたものです。答えは出ていません。でも、少しだけ楽になれたことがあるので、それを共有したいと思います。
「見るのをやめればいい」は、たぶん正解じゃない
しんどいなら見なければいい。頭ではわかっています。SNSを消せばいい、アプリを削除すればいい。
でも実際にそれをやった時期がありました。Instagramを3週間消してみた。最初の数日は清々しかった。でも気づいたら職場の話題についていけなくなっていたり、友人のイベントの告知を見逃したり、「なんかみんなの話についていけない感」が出てきた。SNSは今の時代、完全に切り離すことが難しいインフラに近くなっている。
それに、完全にやめたからといって、「比べてしまう気持ち」そのものがなくなるわけじゃない。SNSがない時代だって、人は隣の芝生を青く見ていたはずです。問題はSNSそのものより、自分の中にある何かな気がしています。
キラキラ投稿が「しんどい」理由を、冷静に考えてみた
なぜ見るたびに苦しくなるんだろう、と真剣に考えた時期がありました。
一つは、比較の非対称性だと思っています。SNSに投稿されるのは、その人の人生の「ハイライト」です。素敵なご飯、楽しい旅行、うまくいった出来事。でも私が自分と比較しているのは、自分の「日常」です。月曜の朝の満員電車と、誰かの週末のラグジュアリーホテルを比べている。土俵が全然違う。
もう一つは、アルゴリズムの問題です。InstagramもTikTokも、「反応が良い投稿」をより多く表示する設計になっています。そして反応が良いのは、見た人が「すごい」「羨ましい」と感じる投稿が多い。つまり、フィードは意図的かどうかに関わらず、キラキラ成分が濃縮されやすい構造になっています。自分の意思とは関係なく、羨望を誘う情報が次々と流れてくる。
そして三つ目が、見ている時間帯の問題です。私がしんどいと感じていたのは、決まって夜の疲れた時間帯でした。仕事で疲れていて、孤独を感じていて、自分に自信がないとき——そういうタイミングにSNSを開くと、ダメージが何倍にもなる。
キラキラ投稿を発信している側のリアル
あるとき、自分がInstagramにどんな投稿をしているかを振り返ってみました。
友人と久しぶりに会って楽しかったときの写真。おいしいご飯を食べたときの一枚。旅行に行ったときのストーリー。投稿しているのは確かに自分でも楽しかった瞬間なんだけど、そこには「月曜の朝がしんどかった」も「仕事でミスして落ち込んだ」も「週末ずっと家にいた」も入っていない。
つまり、私も誰かにとっての「キラキラ投稿」を発信している側にいる。そう気づいたとき、少しだけ画面の向こう側の見え方が変わりました。みんな、見せていない部分がある。当たり前のことだけど、それを本当に実感したのはこのときでした。
TikTokはまた少し違う種類のしんどさがある
Instagramが「静止画・自己演出のしんどさ」だとすると、TikTokはまた別の種類の影響があると感じています。
次々と流れてくる動画の中に、「早期退職して海外移住した20代」「月収100万円のフリーランス」「週3勤務で旅行しまくっている人」みたいなコンテンツが混ざってくる。これは現実に存在する人の話なんだけど、そこには当然サバイバーバイアスがかかっています。うまくいった人だけが動画を作って発信できる。うまくいかなかった人の話は、アルゴリズムには乗ってこない。
TikTokのこういうコンテンツを繰り返し見ていると、「会社員で毎日通勤している自分」が間違っているように感じてくることがある。でもそれは、コンテンツの構造上の偏りで生じた錯覚です。普通に働いて、普通に生きている人の話は、バイラルになりにくいというだけの話です。
私が少しだけ楽になれた、3つのこと
完全に解決したわけじゃないし、今でも夜中にスクロールしてちょっと重くなることはあります。それでも、以前よりは楽になったと感じる変化が3つありました。
一つ目は、「見る時間帯」を変えたことです。夜の疲れた時間帯にSNSを開くのをやめて、朝のコーヒーを飲みながら開くようにした。疲弊していない状態でスクロールすると、同じ投稿でも受け取り方がかなり変わります。
二つ目は、フォローを整理したことです。「この人の投稿を見るたびに、なんか嫌な気持ちになる」と感じるアカウントを、ミュートにしました。フォローを外すのは関係性が壊れそうで怖かったので、ミュートという機能を使いました。相手に通知は届かないし、自分のフィードには表示されなくなる。これだけで、かなりフィードの空気感が変わりました。
三つ目は、「自分が何を見ているときに楽しいか」を意識するようにしたことです。料理の動画、旅行の風景、ドキュメンタリー系のコンテンツ——比較を誘発しない、純粋に見ていて楽しいコンテンツをフォローするようにした。SNSを「比べる場所」から「楽しむ場所」に少しずつ変えていくイメージです。
「普通の生活」を発信することの意味
このブログを書き始めた理由のひとつも、実はここにあります。
手取り19万円で東京に来て、家賃82,000円の1Kに住んで、同期が5人しかいない会社で働いている。旅行にしょっちゅう行けるわけでも、おしゃれなカフェで毎日働けるわけでも、インフルエンサーみたいな生活ができるわけでもない。でも、そういう「普通の生活」をしている人の話も、どこかに必要だと思った。
キラキラしていないことが、恥ずかしいことだと思っていた時期があります。でも今は、キラキラしていない話の方が、誰かの「そうそう、そうなんだよ」に繋がることもあると思っています。
最後に:正解は、たぶんない
SNSとどう向き合うかに、普遍的な正解はないと思っています。完全にやめた方が楽な人もいるし、うまく距離を取って楽しめている人もいる。感じ方も、影響の受け方も、人によって全然違う。
ただ一つ言えるとしたら、「苦しいのに見続けること」を自分に強いる必要はないということです。SNSは道具であって、使い方は自分で選べる。フォローを整理してもいいし、見る時間を決めてもいいし、しばらく距離を置いてもいい。
キラキラした投稿を見て「いいな」と思う気持ちは、自分がそこに向かおうとするエネルギーにもなれます。でも、それが「自分はダメだ」という方向に向かい始めたら、少しだけ立ち止まってみる。それくらいの距離感が、今の私にはちょうどいい気がしています。

